オレはもうずっと長い間、苛立ちと空虚な気持ちが入り交じったような日々を過ごしている。曖昧で不安定な感情は、吐き出すことも叶わず延々とオレの中心を食いつぶしていく。自分でもよく分からない感情に振り回されるのは腹が立つ。そしてまた苛立ちを増す。負のループだ。
あの雨の日――歌えなくなったあの日、オレは自分がどうしようもなく人間であることを感じて恐ろしくなった。勿論手首に指を当てれば確かな脈は感じられるし、生きるために呼吸は繰り返す。そういった生命現象の有無ではない。もっと根本的なところで揺らぐのを感じた。
冷たい雨に打たれた自分の身体の冷たさを今でも思い出す。カノジョを引き寄せた指先は熱を失い、確かに震えていた。目の前のカノジョの見開いた瞳も、その唇から零れた言葉すらも鮮明に覚えている。
家から追い出されたはずのカノジョは、それでも一人で生きていた。平気な顔をして、まるでそれが当たり前のことのように振る舞って。オレの側にいなくても、カノジョは自分の足で立っていられる。その事実は、同時にオレ自身の脆さまで突きつけてくる。
カノジョがいなくなるだけで歌えなくなるなんて、そんなことはあってはならなかった。そんなの許されない。カノジョ一人の存在に心かき乱され、容易く傷付き壊れるなんて、そんなのただの人間と変わらない。ヴェロニカのモモチはいつだって完璧な存在であって、それはチアーズにとっても、カノジョにとっても同じことだったはず。求められるための絶対的な何かを、オレはあの日失った。
――アンタのことなんて、本気でいらなくなったら秒で捨てる。
あの言葉は、カノジョに掛けた呪いだ。オレがカノジョにとっての『神様』に戻るための呪縛だった。その言葉がカノジョの心をどれだけ傷付けたとしても構わない。カノジョがオレから離れなくなるのなら、それでよかった。言葉は重い鎖となってカノジョのすべてを縛り付ける。何か他のことを考えていたとしても、その度に思い起こせばいい。そうすればきっと離れられなくなるはずだから。
オレは、そうすることでしかカノジョを繋ぎ止められなかった。
「サイアク」
誰もいない会議室に声が響く。その温度は低く、彼の持つ感情がありありと伝わってくる。彼――モモチは椅子を引きながら吐き捨てるように呟いた。
手の中の機械を見やれば、その時刻は約束の時間をとうの昔に過ぎている。もう帰ってしまおうか。そんな考えがふと浮かぶ。眉間に深い皺を寄せると、もう一度舌打ちを落とした。
あと数秒空白の時間が存在すればその考えを行動に移していただろう。だけどその未来は扉を開き部屋に入ってきた人物によって阻止される。
「そろそろ着くらしい。広報からさっき連絡があった」
スマートフォンを片手に入ってきたのはルミエールのヴォーカル、レオードだった。
「それで?」
「それで……って、どういう意味だ」
「ボクたちをこーんなに待たせといて、あっちから謝罪の一つくらいあってもイイんじゃないかなぁって」
手持ち無沙汰に端末の画面をなぞる指先は鋭い。とんとんと不規則に刻まれる音が、モモチの声と重なる。不機嫌な様子のモモチをレオードは即座に面倒な状況だと認識したのか、それともその彼の苛立ちが伝播したのか、眉間に皺を寄せる。
「オレに言われても知らない。こっちも待たされてる被害者だ」
「まぁ、そうだよねぇ」
モモチは肩をすくめると、机の上に肘をつく。そのまま組んだ手に顎を乗せると不機嫌そうな表情のまま息を吐き出した。レオードはそんなモモチを尻目に、会議室の机に持っていた荷物を置き、椅子に腰を下ろす。そうすると空間はまた先程の静寂さに返る。
この部屋に入ってからもう一時間は経っているだろうか。最早時計を確認する気にもなれず、ぼんやりと天井を見つめた。早く来ればいいと思う反面で、このまま永遠にやってこなければいいとも思う。
本来ならここにはもう一人、別の人物がいたはずだったのに、見て分かる通りその人物はここにいない。それはモモチの在籍するヴェロニカがというより、そのヴェロニカが所属する音楽プロダクションであるクライマックスレコードが懇意にしている音楽雑誌のライターで、モモチも何度か顔を合わせたことのある男だった。
ヴェロニカとルミエ、ブレチャとJET、篝火とNSFW、それぞれのバンドのヴォーカルによる三号連続対談インタビューという企画は、数ヶ月後に開催を控えるクライマックスレコード主催の音楽フェスを記念して考えられたもので、発表当初から予想していたよりも多くの反響があった。その中にはジュダとエーダッシュという種類の違う爆弾同士の対談が果たして成立するのかだとか、所属するバンドの色のまるで違うヨシュアとユゥがどのようなことを語るのかといった期待の声も寄せられていた。モモチとレオードに関してもその例外ではなく、細菌のファンレターやTwitterのリプライにもその企画についての内容を楽しみにしているといったものが見受けられる。
オーディエンスたちが期待に胸を膨らませている一方で、ここにいる当の二人はお互いに無表情で言葉も交わさない。もう少し状況が違っていれば世間話の一つや二つもあっただろうが、生憎とこの空気ではそんな流れにもならない。
そもそもモモチは他人のことを気にするようなタイプではないし、モモチにとって他人とは自分にとって有益な存在か否か、その二択しか存在しない。だからモモチにとってのレオードはそのどちらでもない、ただ同じ境遇に置かれた同業者として存在しているだけ。それ以上でもそれ以下でもなかった。
レオードにとってのモモチも同じようなものだろう。レオードは誰に対しても基本的に同じ態度をとる。興味がないとかそういう問題ではなく、彼は単純にそういった性格なのだ。
モモチのように見せる表情と本心がまるで違っていて、仮面を被っているような人間とは違う。何か隠し事があったとしても、それを含めてレオードなのだと思わされる。素のままで生きることで彼という存在が成り立っている。多くの人間が思い描く理想像から少し外れたとして、それが彼の価値を損ねることはない。そんな振る舞いは、モモチにとってこの上なく理解しがたいものだった。
ふと隣を見れば、そこには画面を見つめながら頬を緩めるレオードの姿があった。どうやら誰かからの連絡が来たようで、その表情はステージ上の彼からは想像もできない。今この場にモモチがいなければ、メッセージの相手に電話を掛けていたことだろう。容易に想像ができるその姿に、思わず笑ってしまいそうになる。
「なんだ。何かおかしかったか」
心の中だけで済ましていたはずの笑いは、知らず知らずのうちに現実となっていたらしい。訝しむような視線がこちらに向けられる。
「ううん、別に。レオくんとこはいつも仲が良くていいなーって思って」
「……なんだソレ。別にオマエには関係ないだろ」
自分の恋人のこととなると途端に警戒の色が滲み出す。己の弱点がそこにあると隠そうとしているようで、実際はその所在を自らさらけ出している。いかにもな単純な返事は、レオードの動揺を如実に表しているようだった。
「えー、でもホント仲良いよね。ルミエって」
わざとらしく言葉を付け足してやれば、レオードがほっとしたように肩から力が抜けるのが分かった。モモチは内心で溜息を吐く。
「なんだそっちか」
自分の思い描いていた人物とは違うものへ話題が逸れた安堵感で、レオードの眉の間の緊張は解かれた。それでも警戒心の強い猫に似た様子で、未だこちらの出方を窺っている。
「ホラ、ボクたちってみんなそれぞれ自分のホームがあるから、なかなか距離が縮まらない感じがするんだよね。そういうトコ、ルミエを見習っていきたいなーって思ってて」
どの口が、と自らを嘲笑する。今の自分とは微塵も結びつかない心情を語る声は、最早ただの音でしかない。中身の伴わない空虚な言葉が並べ立てられていくのが愉快だった。
そんな殊勝なことをこの男が考えるはずがないと、レオードなら察するはずだ。少しばかりズレた感覚だとしても、モモチがどういう人間性の持ち主で、どういった振る舞いをする男なのかを知る者からすれば、至極当たり前の思考回路であった。
「……まあ、オレたちは付き合いも長いからな。学生の延長で始めたから、そのノリが今でも抜けてない感じはする。喧嘩だってしょっちゅうだし」
案の定何か言いたげな視線を向けられながら、それでも会話は続く。こんな会話が始まったのはどうしてなのだろうか。主軸を見失ったまま、そもそもそんなもの初めから存在しないと分かりながら、その場にそぐう言葉を返す。
「へぇ、ルミエでも喧嘩とかするんだ。篝火の二人はそういうイメージあるけど、ルミエにそういう印象なかったなぁ」
「アレは喧嘩っていう度を超えていると思うケド、まあアレに比べたら些細なものだけどな。……でも、そうやって衝突することがあるくらい全員が音楽に真剣なのは良いことだとオレは思う。そうじゃないと、良い音楽なんてできやしないから」
静かだったレオードの口調に、微かに熱がこもる。バンドマンとしてあるべき姿を語る彼の瞳は、驚くほどにまっすぐだった。
「……アハ、そうだね」
いつもは饒舌なモモチが、たったそれだけを返すだけだった。
モモチにとって、ヴェロニカの音楽は自分自身そのものであった。そこには他の誰の介入も必要ない。だからといって音楽の神に自らのすべてを捧げるような信心深い生き方を選んだというわけではない。もっと独善的で、野蛮で、侮蔑的な意図がそこにはあった。それこそがヴェロニカの音楽の本質であり、モモチに心酔する多くの人間が彼に求めているものだと、彼自身が理解している。
だからこうして理想論を述べられたところで、その言葉はモモチには決して届かない。モモチの持つ音楽性とも、生き方とも、存在理由とも相容れないただの絵空事にしか思えない。ヴェロニカの音楽は、モモチによって生み出された瞬間に既に完成されていて、誰にも侵すことはできないのだ。
モモチとレオードの間には重い静寂が横たわる。どちらも口を開こうとはしなかった。
沈黙は不意に破られる。それは会議室の扉をノックする音で、二人の視線はそちらへ吸い寄せられる。
「いやぁ、すみません」
扉の向こうにいたのは、暢気で締まりがない笑みを浮かべた男だった。眼鏡を掛けたその顔は、モモチの記憶にあったライターのものと確かに一致する。彼は片手を上げて謝罪の言葉を口にしながら、こちらに向かって歩を進める。二人の正面まで来た彼は、改めて口を開いた。
「一つ前の取材が押してしまいまして。二人を待たせることになって本当に申し訳ない」
わざとらしく下げられた眉がいちいちムカつく。申し訳ないなんて心にもない言葉を吐くところも含めて、男の態度が気に食わない。しかしモモチもプロだ。そんな感情をおくびにも出さず、人当たりの良い笑顔を作る。
「いえ、お忙しい中ありがとうございます」
そうして軽く頭を下げれば、隣にいたレオードも倣うようにして一礼する。
この男が過去に書いた記事の内容はやけにはっきりと覚えている。ヴェロニカが今のメンバーを加えて新たにメジャーデビューすることになった時、取材に来たライターがこの男だったのだ。
取材の初めはこれからの活動方針やクライマックスレコードでの活動についての話をしていて、それで終われば良かった。しかし段々とモモチの愛想の良い返事を自分が話を引き出せていると勘違いした男は、調子に乗って昔のヴェロニカについても質問し始める。どうして前のヴェロニカは解散することになったのか。昔のファンに向けての言葉はあるか。そんなくだらない質問の連続に、取材が終わる頃のモモチの気持ちはすっかり冷え切っていた。
後日受け取った音楽雑誌には『Veronica、再生』なんてセンスのない見出しが躍っていて、その雑誌は開かれることなくゴミ箱へと投げ捨てられた。男は業界ではそこそこ名の知れたライターなのかもしれないが、モモチにとってはそんなことどうでも良い。くだらない記事を書く、取るに足らない人間という認識だけが、モモチの中に残っていた。
「じゃあ、さっそくだけど」
席に着いた男が取材用のメモを取り出す。事前に質問を書き連ねたページをペラペラと捲り、その中から二人に訊く内容を選んでいる。そういえば以前もこんな感じで進んだことを思い出した。
「もうすぐクライマックスレコード主催の音楽フェスということだけど、率直に今どんなお気持ちですか」
案の定投げ掛けられたつまらない質問に、モモチは内心鼻白む。そんなことをわざわざ雑誌に燃せるインタビューで訊く意味はあるのだろうか。嘲るモモチの心の声など知る由もなく、隣のレオードは淀みなく答えていく。
「やっぱり楽しみな気持ちが大きいです。オレたちだけのライブも勿論大事だけど、オーディエンスが一体となって盛り上がるあの感じはフェスならではだと思うから」
「なるほど。じゃあそんなルミエ単独のライブと違って意識してることってありますか」
「普段のステージとは全く違う環境だから、まずはその空気を自分たちのものにしようっていうのは心がけてます。あとはやっぱり演奏技術も意識してるかもしれない。他のバンドと比較されるわけだし、そこで負けないように練習してきたものを存分に発揮したいってメンバーとも話してます」
ルミエールのレオードらしい、理路整然としながらも情熱を感じさせる言葉だった。力強く、彼らのパフォーマンスそのものも彷彿とさせる。レオードがいかにルミエールに精魂を傾けているか、皆でバンドを作り上げる仲間意識を大切にしているかがその言葉だけで分かってしまう。モモチには決して持ち得ることのない、知らない感情だった。
「じゃあ、それに対してモモチさん率いるヴェロニカは」
どうですか、と男の視線がモモチに向けられ、その瞳に期待の色が浮かぶ。モモチがどんな意気込みでこのフェスに臨むのか、その言葉を彼は待ち望んでいる。
きっと求められているのは、ヴェロニカ一丸となってフェスに向けて意気込むモモチの姿だろう。バンドの結束。オーディエンスへの想い。普段努力とは縁遠い、天才と呼ばれるに相応しいモモチが特別にこのステージへの情熱を垣間見せることが、紙面のアクセントになる。
「そうですね」
一拍置いて、思案する。目の前の男の望む言葉を喉まで出しかけて、飲み込んだ。
「……ボクはボクなりに出来ることを頑張るつもりですよ」
ヴェロニカのモモチとしての言葉など、モモチの中には存在しない。ヴェロニカであるのは初めからモモチ一人だ。他の寄せ集められた人間の気持ちを汲んだ言葉など、偽りを口にするのと同義だった。
自分を偽ることはいくらでもする。しかし、それはモモチにとって利益が生まれる場合だけ。どれだけ期待されても、音楽というものでモモチは自分を貶めることをしない。ヴェロニカというモモチの城は、モモチだけのものだった。
モモチの言葉に、ライターの表情が曇る。モモチの態度に落胆したのが一目瞭然だ。
「でも、ルミエにも他のバンドにも負けない自信はありますよ。ヴェロニカのステージを待っているチアーズのために、最高のものを見せてあげなくちゃいけないですし」
自信に満ちた声色を作って、そんな言葉を続ける。ヴェロニカのモモチとして発するに値する台詞を、モモチはそのまま音にした。すると男はモモチに気圧されたように少し身を引く。しかし、すぐに気を取り直した様子で再びメモにペンを走らせ始める。モモチの挑発的な言葉に、ライターは乗り気になってきたようだった。
「いいね、その自信。それこそヴェロニカの真骨頂って感じがする。じゃあ、次に行こうか」
モモチの言葉に満足がいったのか、男は機嫌良く次の質問を投げ掛ける。対するルミエはどういう気持ちか。具体的にどういうパフォーマンスを目指しているのか。お互いのこの部分は真似できないと思っているか。それからも何度か似たようなつまらない質問が続き、モモチは適当にあしらいながら取材を終えることになった。
「モモチ」
満足げな笑みを浮かべたライターが会議室を去ったあと、隣のレオードが声を掛けてくる。
「あ、レオくんお疲れ様ー」
軽く微笑んでみせるが、モモチの裏の顔を知っているレオードには最早何の意味も為さない。モモチの笑顔を無言で数秒眺めたレオードは、小さく溜め息を吐く。
「オマエ、さっきのは何だ」
「え、何のことかな」
とぼけた表情を作ってみせると、呆れたような顔で返されてしまう。
「適当なコトばっかり言ってはぐらかしてただろ。オマエたちだけのライブなら関係ないが、今回のフェスにそんな中途半端な気持ちで臨まれるのは困る」
こういう時に目敏く、妙な正義感を持ち合わせているのがレオードという男だ。扱い易いようで実はそうでない、ひどく面倒なタイプ。
仲良しこよしでやる音楽に意味などない。それはレオードも知っているはず。彼の言っていることに、そういった馴れ合いを肯定する意図は含まれていない。
根本的に違っているのだ。モモチとレオードの音楽に対する姿勢も、バンドのあり方も。ヴェロニカはただモモチの音楽を表現するための装置に過ぎない。モモチという才能を核にして輝く、血の通わない芸術作品に似た何かだ。そんなヴェロニカの中心で歌うモモチには、仲間同士で切磋琢磨して音楽を作るレオードの言葉は、どこか滑稽に聞こえる。
「別に、ライブの本番は本気でやるから大丈夫でしょ。ボクにはボクのやり方があるから」
レオくんには関係ないことだよね。遠回しな拒絶の言葉をいつものように笑って返す。
「……そうやって全部自分一人だけでやってると思い込んでたら、いつか本当に一人になるぞ。全部離れてからだと遅い。メンバーも、それ以外の周りの人間もだ」
レオードの含みのある言葉に、モモチは無言を返す。
初めからモモチは一人で、他の誰も必要としていない。それはメンバーにも、カノジョに関しても言えることだ。
理解されようとは思わない。同じバンドのヴォーカリストだとしても、そこには大きな溝がある。互いにそれを眺めるだけで、乗り越えるつもりもない。見えない線が、二人の間にはっきりと引かれていた。
「……もういい? ボク、そろそろ行くね」
自分の荷物を掴み、立ち上がる。これ以上話しても無駄だと悟ったのか、レオードは何も言わない。モモチが退室しようとするのを黙って見送るだけ。
扉を閉める瞬間、視線が交わる。感情の読めない瞳が、こちらを見据えて動かなかった。
「ただいま」
モモチが帰ってきたというのに、玄関は真っ暗で家の中からは物音一つしない。いつもと違ってしんと静まり返り人の気配のない様子に、一抹の違和感を覚えた。
壁に手を伸ばし、そこにあるはずの電気スイッチを手探りで押す。ぱちんと音を立てて明かりがつけば、玄関の無機質なタイルに光が反射して少しまぶしい。カノジョの小さな靴は、いつも通り行儀良く置かれていた。その様子にいくらか安堵しながら、モモチは靴を無造作に脱ぎ捨てた。
まっすぐリビングに向かえば、そこにもカノジョはいない。ソファに座ってこちらを振り返る姿はいくらでも想像できるのに、目の前の現実は違っている。
焦る気持ちがモモチの足を動かす。そんなわけがない。カノジョが自分の下を離れるなんてあるはずがない。モモチを愚かしいほど一途に見つめていた瞳が、他の誰かを映すことなどあるはずがない。
そう強く言い聞かせながら、早鐘を打つ心臓が落ち着くのを待った。一度だけ深呼吸をし、先程歩いた廊下を戻って勢いよく寝室のドアを開ける。そこにはベッドの上で眠るカノジョがいた。
「……なんだ、いるじゃん」
どっと押し寄せる疲労感、そして同時に胸に湧き上がる馬鹿らしさ。カノジョ一人の存在に振り回されるなんて、モモチらしくない。一体何を恐れている。もし仮に現実がモモチの想像していた通りになったとして、それが何だというのだ。過去の自分が口にした言葉が、今になって自らに返ってくる。
――オレは変わらない。アンタと出会う前のオレに戻って、どんなことも一人で自由にやるだけ。
あの言葉に偽りはない。カノジョがいなくなったところでモモチの何かが変わるわけではないのだから、問題など何一つなかった。ただその光景を思い浮かべる度に、自分の体温がじわじわと奪われていくのに似た感覚に陥る。雨に打たれて誰かを待つ自分の影は、あの時に捨て去ったはず。自分ではない人間に多くを求めても無駄だということは、ずっと昔に思い知っていたのに、今更それが何だと言うのだ。
最初からモモチとカノジョは別の生き物で、一度たりともひとつになったことはない。カノジョを手放したところで何を失うわけでもないのに、この胸に渦巻く恐れは一体どこからやって来るのか。
「バカらし。こんな子に振り回されるなんて、オレらしくない」
モモチの自嘲が、静かな寝室に落ちる。眠るカノジョには届くはずもない。モモチがここにいることに気付くこともなく、カノジョはただ静かに眠り続けている。その穏やかな表情が、今はひどく腹立たしかった。
不意にカノジョの顔に手を添え、ゆっくりと撫でてみる。肌は白く、柔らかい。そのまま指先で頬に触れれば、カノジョの温もりを感じることができた。生きている人間の温度。モモチはその事実を確認するように何度も繰り返す。やがてその指が薄く開いた唇に触れようとした瞬間、閉じられていたカノジョの瞳がうっすらと開かれた。
「……モモチ、くん」
モモチを呼ぶ声はまだおぼつかない。眠りから覚めたばかりでぼやけた意識の中、カノジョは目の前のモモチの姿を捉えてただその名を無意識に口にするだけ。
「ああ、起きたの」
触れる寸前のところで動きを止めた手はそのままに、モモチは何事もなかったかのように振る舞う。カノジョはぼんやりとした目つきのまま、不思議そうな顔をしてモモチを見つめていた。
「ごめんなさい。私、寝ちゃってて」
申し訳なさそうにカノジョが眉を落とすのが見える。別に、眠いならそのまま寝ててもいいよ。モモチの言葉に、カノジョは小さく首を振って返事をする。
「そう」
壁に掛けられた時計を見ればもうすぐ日付が変わりそうだ。カノジョが目を擦りながら起き上がったことで、布団の上に散らばっていた長い髪が肩から滑り落ちた。モモチはその様子を横目に見ながら、ベッドの端に腰掛ける。モモチの視線に気付いたカノジョは、乱れた髪を手櫛で整え始めた。細い指先が、流れるような髪を掬っていく。その仕草をじっと見つめていれば、こちらに向けられる瞳と目が合った。
「……モモチくん」
「どうしたの」
カノジョはどこか不安げな様子で、こちらの様子を窺っている。モモチはいつものように返事をするが、それには何も答えずにそっと手を伸ばしてきた。しかし、その手はモモチの頬に触れる前にぴたりと止まる。
「ううん。何でもない」
カノジョの手が離れていくのを、モモチはそれを黙って見ていた。触れられるはずだった熱が、失われていく。自分から逃げるような指が何故か無性に腹立たしくて、モモチはその手を咄嗟に掴んだ。
「なに、触りたいなら触ればいいじゃん」
モモチはそう言って、カノジョの手に自らのそれを絡めるように重ねた。触れ合う箇所からは互いの体温が混じり合い、溶け合って、どちらともわからないほど同じになる。
カノジョが小さく息を呑んだ音が聞こえたが、それを無視した。さっき感じた胸の焦りを上書きするように、カノジョを引き寄せ自らの腕の中に閉じ込める。背中に回された手が戸惑いながらもシャツを掴むのを感じ、満足気に口角を上げた。
「ね、今日はイイ子にできた?」
耳元で囁けば、カノジョはこくりと頷く。そのまま顔を上げさせてみれば、恥ずかしそうにしながらも素直に従う。モモチはカノジョの顎に指をかけ少しだけ持ち上げると、その小さな唇を食らうようにキスをした。角度を変え、何度か唇を重ね合わせる。そのうち舌を差し入れてみれば、応えるようにカノジョもおずおずと絡ませてくる。呼吸を奪うように深くまで侵入すれば、カノジョは苦しさに喘ぐがそれでも必死に応えようとしてくる。そんな健気さがいじらしく思えて、モモチは更に求めた。
酸素を求めて僅かに離れた隙に、カノジョが大きく咳き込んだ。涙目になりながら懸命に空気を取り込もうとする姿に、思わず笑みがこぼれる。まるでモモチに縋らないと生きていけない弱い生き物のようだ。
やがて呼吸の落ち着いたカノジョは、モモチの腕の中で身じろぎし、何か言いたそうに見上げてきた。
あの、とカノジョが言葉を紡ごうとした瞬間、モモチはカノジョの身体を押し倒し再び口を塞いだ。手放す気配すら感じさせず、口内に残る唾液をじっくりと味わう。歯列をなぞり、上顎の辺りを執拗に舐め上げる。その度にびくりと反応を示すカノジョの頭を撫でてやるが、まだ解放するつもりはない。
モモチはカノジョの口腔を思う存分蹂躙し、ようやくその唇を解放してやった。カノジョは頬を赤く染め、肩で大きく息をしている。その表情は蕩けていて、まるで情事の最中を思わせる。モモチはカノジョの濡れた唇を親指で拭ってやりながら、意地悪く笑いかけた。
「欲しそうな顔してる。何が欲しいのか、言ってみなよ」
モモチの言葉に、赤らんだ頬はさらに色濃く変化する。潤んだ瞳は揺れ動いていたが、やがて観念したのか震える声で小さく呟いた。
「……モモチくんが、ほしいです」
その言葉にモモチは一瞬だけ目を見開くと、小さく笑ってカノジョの額に軽く口付けた。カノジョはモモチの胸に顔を押し付け、甘えるようにすり寄ってくる。モモチはその背に手を回し抱き締めてやるが、それは優しさからくる抱擁というより、ただの拘束に近い。
モモチはカノジョの首筋に鼻を寄せ、匂いを嗅いでみる。カノジョの体臭は嫌いじゃない。どこか甘く優しい香りがする。けれど、今求めた物は違った。タバコの匂いも香水も、いつも自分のもので上書きしているはず。なのに、すぐに薄れて消えてしまう。モモチの存在が希薄になったその匂いに、自然と眉間に皺が寄る。
そのまま首元に噛み付くような仕草をしてみせれば驚いたようにカノジョの体が強張るが、構わずに強く吸い上げた。暫くすると、そこには赤い鬱血痕が残る。所有印とも言えるそれに満足して口元を緩めると、今度はそこに優しく舌を這わせた。時折強く吸っては、その箇所を労るように丁寧に舐めてやる。その行為にカノジョは身を捩らせ、甘い声を漏らした。瞑目しながら耐える姿に嗜虐心が刺激される。このまま喰らい尽くしてしまいたい。そんな衝動に駆られ、今度こそ白い肌に思い切り噛み付いた。
「ひっ……」
不意に与えられた痛みから、悲鳴のような短い叫びが上がる。しかしそれも、すぐにモモチの唇によって飲み込まれてしまう。荒々しく何度も繰り返されるキスに、カノジョは苦しそうにもがく。モモチはそれを許さず、さらに深くまで求めていく。互いの息遣いだけが響く室内は、まるで溺れているようだった。
「んっ……ふ……ぁ」
漏れる吐息に苦痛以外のものが混ざる。それに気付いたモモチは一旦動きを止め、ゆっくりと顔を上げた。二人の間を繋いでいた銀糸が切れ、カノジョの口元に落ちる。モモチが指先で掬い取りそのまま口に含めば、カノジョは恥ずかしそうに目を逸らす。その様子が可笑しくて、モモチはくつくつと喉の奥で笑った。
「気持ちよかったんだ?」
モモチの問い掛けにカノジョは答えない。その代わりに、視線だけをそっとモモチに向ける。表情は羞恥に満ちていたが、奥には確かに期待の色が滲んでいた。
指先を胸の辺りへと移動させれば、ぴくりと素直な反応が返された。細長いモモチの指がゆっくりとボタンを外すのを、カノジョはただ従順に眺める。
抵抗を示さないカノジョは、きっとあの日のモモチの言葉に囚われている。不必要な存在へ落ちることを恐れ、求められるままに身体を委ねる。なんて憐れな姿だと、モモチは思う。
モモチが掛けた呪いは、カノジョの元あった形を奪っていった。氷が溶けて水に変わるように。カノジョは愚かだから、きっと自分ではそのことに気付かない。それがカノジョにとって幸せなのか、不幸なのかは分からないけど、もう遅い。今更、この歪んだ関係が元に戻ることなんて出来やしないのだから。
「モモチ、くん」
震える声が、モモチの名を呼ぶ。その声に意識を現実へと引き戻されたモモチは、無言のままカノジョを見下ろす。
「自分で脱いでみて、全部」
静かに言い放つと、カノジョは小さく息を呑む。だがその表情が戸惑いの色に染まるのも一瞬のことで、こくりと頷きその手を自らの服に掛けた。モモチが外したボタンの残りをすべて開けると、そのままシャツを肩から落とす。露わになった白い肌が、窓から差し込む月明かりに照らされてぼんやりと浮かび上がる。
命令は、カノジョをいとも容易く動かす。不意に「この子、オレに死ねって言われたら死ぬのかな」なんて考えが、モモチの頭を過った。それはひどく馬鹿げた妄想だったが、何故だか恐ろしいほどにしっくりくる。
カノジョはスカートのホックに手を掛け、ファスナーを下げる。そしてゆっくりと取り去ったそれを床に落とした。流れるような動作で下着に手を掛けると、同じように足から抜き取る。最後に残ったのは、カノジョが纏うブラ一枚だけ。ホックを外し、それすらも落としてしまうと、カノジョのすべてがモモチの眼前に晒された。
ベッドの上で膝立ちになり、震える手で自分の体を隠そうとするカノジョの姿は、酷く頼りなげに見える。モモチを見つめるその瞳は、次の言葉を待っているかのように揺れていた。
「おいで」
手招きに表情の翳りは消え、ほのかに嬉しそうな顔をさせて近付いてきたカノジョを抱き寄せる。その拍子に、ふわりと香りが立ち上った。さっき首筋から香ったものと同じだが、いつの間にかモモチの匂いが重なって少しだけ違うものになっている。その香りに酔いながら、モモチは目の前にある小さな耳を口に含んだ。軽く歯を立て甘噛みすれば、腕の中の体が微かに跳ねる。
カノジョの身体を引き寄せたまま、モモチはベッドに倒れ込んだ。柔らかなシーツに受け止められ、小さな身体は簡単に沈む。
唇をカノジョの白い肌の上に滑らせる。時々強く吸い上げ、所有印を残すことも忘れない。その感覚が心地良いのか、赤い痕が増えていく度に、カノジョの口からは微かな甘い声が漏れる。
「ふ、ぅ……」
他の誰にも見せることのない皮膚に、いくつもの痕跡が作られていく。牽制の意味も含まれているが、実際にそれを目にするのは痕を残した張本人のモモチだけ。そうだったとしても構わない。元よりこれは、ただの所有欲を満たすための行為に過ぎないのだから。
肌をなぞる唇はそのままに、片方の手を下へ伸ばす。辿り着いた先は、カノジョの秘められた場所。既に潤みを帯びているそこを指先でなぞれば、蜜は溢れて止まらない。指先を中へと沈め、狭い内壁を押し広げながら、そのままゆっくりと奥へ進める。
やがて指先が最深部に触れれば、そこは柔らかく解れていて、欲しがる本心を隠すことなく指に吸い付いてくる。それに応えるように指を増やしても痛みを訴える様子はなく、むしろ悦びながら締め付けてきた。
「ん、ん……」
口に手の甲を押し当てて声を抑えるカノジョは、行き過ぎた快楽をそうしてやり過ごすつもりなのか。そんなことをしたところで意味がないことは明白で、耐え忍ぶ姿は滑稽に映る。
指の動きはそのままに、もう片方の手で胸に触れてやる。先端は既に硬く尖っていて、優しく指の腹で転がすだけでカノジョは身を捩らせた。
両の手から与えられる刺激に耐えきれず、カノジョはぎゅっと目を瞑る。しかしそれでも声を抑えきれないようで、次第に呼吸は荒くなり、吐息混じりの喘ぎ声が部屋に響く。その反応を楽しむように、モモチは執拗に責め立てる。摘まむように弄れば、カノジョは一際高い声で鳴いて背中を大きく反らした。
「や、ぁっ」
壊れ物を扱うような愛撫に混ぜられる容赦のない快感の波。それはまるで嵐のようにカノジョを翻弄する。押し寄せるそれに抗う術などなく、為されるがまま翻弄され続ける姿は哀れにも思えたが、同時にひどく淫靡に映った。
追い打ちをかけるように、赤く腫れた突起に舌を伸ばす。そのまま口に含めば、頭上からは悲痛な叫びが聞こえた気がした。構わずに、今度は歯を立てる。強弱をつけて噛んでやると、カノジョは背をしならせて身悶える。
「なに、気持ちいいの?」
唾液で濡れた乳首から唇を離したのは一瞬で、すぐにまたそこへと吸い付く。ちゅうとわざとらしく音を立ててやれば、カノジョは小さく息を呑み、隘路はモモチの指を一層きつく締め付ける。
自分から返答を求めるような言葉を掛けておきながら、答えを待たずにカノジョの反応を引き出そうとする。そんな身勝手さを自覚しながら、モモチは行為を続けた。
秘裂に差し入れた二本の指をばらばらと動かし、ざらついた天井を擦り上げる。その瞬間、びくりと身体を震わせ、カノジョは喉の奥から引きつった音を漏らした。
「っ、ん、んん……!」
そのまま執拗に同じ箇所を刺激し続ければ、カノジョは声にならない声を上げ、小刻みに身体を痙攣させる。達したことは一目瞭然で、モモチは満足げな笑みを浮かべた。
「……っ、ふ……」
肩で大きく息をしながら絶頂の余韻に浸っているのだろうカノジョは、虚ろになった瞳をモモチに向ける。その瞳には、まだ熱が燻っていた。
ふやけた指をカノジョの中から引き抜き、その手を舐め取る。汗と混ざり合った体液の味がしたが、不快ではなかった。
力の入らない四肢を投げ出し、乱れたままの呼吸を整えるカノジョの太腿に体液が伝うのを見た。その無防備な姿を眺めながら、モモチは手早く自分の服を脱ぐ。下着ごとズボンを下ろし、すべてを投げやりにベッドの下へと放り捨て、すべてを脱ぎ去ったところで、再びカノジョの上に覆い被さった。
陰唇に陰茎の先端を押し当てる。ひくついているそこは、これから訪れるであろう快楽を期待しているのか、モモチのものを擦り付ける度、誘うように収縮を繰り返す。
「っ、モモチくん」
まって、と制止の声が、それまで大人しくモモチの愛撫を受け入れるだけだったカノジョから発せられた。何かと思ってカノジョを待てば、躊躇いがちに言葉が紡がれる。
「ゴム、つけてない……」
熱に浮かされたような表情のまま、しかし焦点はしっかりと合わせながら、カノジョは言う。
今更そんなことを気にする余裕があったことに驚いた。こんなにも快楽に溺れた状態なのに、それでもなお避妊具の有無を確認するとは。
カノジョと行為に及ぶ際に避妊具を着けるのは、何よりもモモチにとって必要なことだった。カノジョへの気遣いや労りからくるものではない。それは、カノジョとの境界を保つためのもの。いつでも後戻りはできるとカノジョに知らしめて、切り捨てられる証明としての役割を、あの薄膜は担っていた。
だけど今この時だけは、その存在が煩わしくて仕方がなかった。
「そんなの、いらないでしょ」
吐き捨てるように言えば、目を見開くカノジョが視界の端に映る。無視してそのまま一気に最奥まで貫けば、悲鳴にも似た声が上がった。
「ひ、ぁっ」
「……は、っ……」
いつも挿入する感覚と変わりないはずなのに、避妊具を隔てていない感触は明らかに違う。直に触れ合う粘膜が、お互いの体温を伝えてくる。その生々しさが、よりいっそう情欲を掻き立てた。
「や、ぁ……それ、だめ……」
カノジョの意思とは関係なく、内側が蠢くのが分かる。モモチの形に慣れた肉筒は、言葉とは裏腹に、悦ぶようにそれを受け入れる。まるで搾り取ろうとしているような動きに、無意識のうちに律動が速くなった。
動きを止めずにいると、カノジョの口から漏れる声は甘美さを増す。抽挿を繰り返しながら徐々に速度を上げると、肌がぶつかる乾いた音が響く。その音に合わせて、接合部からは蜜が溢れ出た。
「だめって、何が? 生でスるのが? それともここ突かれるのが?」
「ち、がッ……ああっ」
知り尽くした箇所をわざと狙えば、面白いくらいに反応する。余裕はとっくに失われていて、カノジョは無意識のうちに背中に回した腕に力を込め、爪を立ててきた。痛みは感じない。それよりも、もっと強い刺激が欲しい。そう思うのと同時にモモチの身体は勝手に動いていて、最奥を強く突き上げていた。
律動の度に嬌声が上がった。熱杭を突き込めば誘うように、引き抜けば離さないとでも言うようにして、媚肉は甘え出す。一方で、激しい動きと対になるような緩やかな口付けを交わせば、カノジョは息苦しさに喘いだ。
「ん、ぅ……ふ……」
呼吸を奪うようなキスは、まるで窒息死を狙っているようだと自分でも思った。酸素を求めて開いた唇に舌を滑り込ませ、すぐにカノジョのものを絡め取る。舌先を吸われ、歯列をなぞられ、上顎を撫ぜられたカノジョは、身体を震わせてその快感を逃そうとする。
「キス、気持ちいいんだ。ナカすごい締まった」
「あ、や……んあッ」
限界が近いはずの身体は、まだ貪ることをやめようとしない。むしろ、更に深いところを求めようとする本能に従って、カノジョの両足を抱え上げる。体勢が変わったことで、屹立の穿つ角度も変わる。そのせいか、今までとは違う快感にカノジョの身体は震えた。
深く繋がる。そのことを意識した瞬間、ぞくりと背筋を駆け上るものがあった。カノジョを揺さぶりながら、身体を屈める。耳元に唇を寄せれば、それだけでまた身体が小さく震えた。そのまま、囁くように言葉を吹き込む。
「……え」
その言葉は、喜悦の中にいたカノジョの意識を現実へと引き戻す。しかしそれもほんの一瞬の出来事。
瞠目したカノジョは、子宮口を押し上げられて息を呑む。その衝撃を逃がす暇もなく、再び強く穿たれた。
「っ! や、そんな、しちゃ」
すぐに思考は与えられる快楽によって塗り潰される。モモチが奥を突けば、頭の中に微かに芽生えた疑問は霧散してしまう。
がくがくと持ち上げた足が揺れる。膝裏に添えられていた手を滑らせ、太腿の裏側から腰を掴む。そのまま引き寄せると、より一層繋がりが深くなった。
結合部からは愛液が零れ落ちている。それを掬い取って陰核に擦り付けると、カノジョは一際高い声で鳴いた。
「あ、ああッ」
びくんと大きく跳ね上がったカノジョの身体を押さえつけ、執拗に花芽を弄り続ける。指先で摘んで押しつぶして、捏ねくり回す。そのたびカノジョの膣は収縮を繰り返し、陰茎を締め付けた。
熱い。全身が熱を帯びて、汗が滲み出る。この熱をどうにかしたい。そんな欲望のまま、カノジョの身体に溺れていく。
「……っ、出す、から」
低く掠れた声で告げると、カノジョの肉襞は応えるように締め付ける。もうとっくに理性など失っているだろうに、それでもまだ無自覚に自分を求めるカノジョが愛おしくて、その姿を見ていると、自分の中にある何かが満たされていく気がして。
「……っ、く」
「やぁっ、あ、あ……」
息を詰めたモモチが最奥まで貫くと、カノジョは喉を引き攣らせる。同時に、カノジョの内壁が搾り取るかのように収縮した。それに抗うことなく、モモチは精を放つ。避妊具越しではない射精は、いつもよりも長く続いたように思えた。
荒い呼吸を繰り返しながら、モモチはゆっくりと身を起こす。ずるり、と陰茎を引き抜くと、塞いでいた栓を失った秘裂からは白濁が流れ出た。
「ぁ……」
喪失感に、カノジョは小さく声を漏らした。そのどこか名残惜しそうな響きは、モモチの耳にも届く。
「……モモチくん、わたし」
名前を呼ばれる。何か言いたげなカノジョの意識を掻き消すように、その唇を塞ぐ。深く口づけて舌を絡ませ合えば、唾液が混ざって、飲み込みきれなかったものが顎を伝う。
「っ、ん……」
視界の端で、カノジョが脚を擦り合わせる。溢れた精液が、内腿を濡らすのが見えた。
唇を解放してやる頃には、もうカノジョは自分の言いたかったことを忘れているだろう。だけど、それで良かった。
すべてをうやむやにしてしまえば、何も聞かずに済むのだから。
私はもうずっと長い間、恐怖と不安が綯い交ぜになったような気持ちで日々を過ごしている。
彼――モモチくんにいらないと言われた時、どんな顔をして去ればいいのかを考えては、きっとそうなったら頭が真っ白になってしまうのだろうなと思う。
私には何もない。モモチくんに出会う前の私は、どんな風に息をして、どうやって生きてきたのか、今はそれすら思い出せない。小さい頃学校の先生に褒められた長所も、クラスメイトに羨ましいと言われた特技も、すべてが記憶からこぼれ落ちていく。過去のどんな人に肯定されたことだとしても、モモチくんが否定すれば初めから持っていないのと同じだった。
あの雨の日――モモチくんが歌えなくなったと言った日、彼も私と同じ人間なんだと思ってしまった。雨に濡れて涙を流しながら、それでも怒りを露わにする姿は、小さな子どもの影と重なった。その姿が、今まで私の見てきたモモチくんとまるで違っていて、手を伸ばせば彼に届くと思ってしまった。でも、それは間違いだと今なら分かる。
モモチくんは何も持たない私とは決定的に違う。彼には歌がある。それは、彼にだけ許された輝きで、どんな人もそのまぶしさに惹かれてしまう。ヴェロニカという場所で歌う時も、一人バーで歌っても、彼の輝きは揺るがない。
どうして忘れてしまっていたんだろう。私が焦がれたはずの歌声は、彼との隔たりを強く意識させて、とっさに耳を塞いだ。
私がモモチくんにとって不必要な存在になったとき、残るのは空っぽな私だけ。彼はステージに立ち続け、また誰かの絶対的な存在になる。私が彼に惹かれたように。
神様に愛された才能を持つ人なのだから、きっと彼の言うことはすべて正しい。
私に出来ることといえば、モモチくんの言葉を聞き、それに従うことだけ。そうすることでしか、彼の傍にいられないから。
モモチのいない昼間のリビングは、やけに広く感じられる。カーテンが風に揺れる音さえ大きく聞こえてしまいそうだった。穏やかな昼下がり。窓から差し込む陽光は暖かく、つい微睡んでしまいそうになる。
ソファに座るカノジョの手には一冊の雑誌があった。表紙で微笑む人物に見覚えはない。近頃どのチャンネルでも流れるコマーシャルの曲を歌っている人物に似ている気もするけど、そうした存在に疎いカノジョには断言できなかった。
ページをめくると、そこにはさまざまな音楽に関する記事が載っていた。どれもこれも、自分にとっては縁遠いものばかり。その中でたった一つだけ、カノジョの目当ての記事がある。
『LUMIERE&Veronica』
目次にあるその文字を頼りに、カノジョはぱらぱらとページをめくる。すると、目的の特集はすぐに見つかる。
大きな見出しの下に写る、よく知った人物。いつも見ているはずなのに、こうして写真として見ると別人のように感じる。けれどそこにあるのは、紛れもなくモモチの姿だった。
インタビューの内容は、見出しにもある通り、今度行われるフェスについて、ルミエールとヴェロニカの両ヴォーカルに質問するといったもの。
読み進めるうち、カノジョの目にある文章が目に留まる。インタビュー中の話題の一つとして、今はもう離れてしまったファンに対してどう思っているかという内容が書かれている部分だった。
――ボクは、ボクから離れて行く人を引き留めることはできないと思ってます。
モモチにとってその言葉がどれほどの意味を持つのか、カノジョには分からない。彼が大勢の人に見せる顔は、本来のものとは違っている。だから、この言葉だって本心ではないかもしれない。
けれど、この言葉を目にした瞬間、胸の奥が締め付けられるような気がして、カノジョはそっと自分の胸に手を当てた。
「……モモチくん」
小さな声は、誰にも届かない。
雑誌を閉じてテーブルに置くと、カノジョはそのままリビングを後にし、寝室へ続く扉を開いた。
ベッドへと身体を沈め、目を瞑ってみる。いつもモモチが眠るスペースに触れても、もうそこに温もりなんて残っているはずがない。
白いベッドシーツの皺を伸ばすようになぞると、不意にあの時のモモチの声が蘇ってくる。
――おねがい、どこにもいかないで。
果てる寸前、か細い声で告げられたあの言葉が、頭から離れない。彼に抱かれる感覚と、囁かれた時の胸の苦しみが、今もなおこの身に残っているようだった。
何か言わなければと確かに思ったはずなのに、塞ぐ彼の唇によって飲み込まれてしまった。あの時の彼の言葉に、私は何と返せたんだろう。今更考えても、答えなんて見つからない。
「……おねがい、どこにもいかないで」
彼と同じ言葉を口にすれば、すんなりと馴染んだ気がした。
私があなたの傍以外で生きられないことを、あなただって知っているはずなのに。